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オブスキュランティズム

作品化は死の刻印を意味する。

写真は写すと共に、瞬間が死に到達する。


今までも誰かしらが口を開き並べてきた言葉だ。



所詮投影であり、ならば事実は薄まり表象の枠を出る事はない。

目にした記憶こそが本物であり、いくら写実的であれ複製品に違いない。


意図して製作された複製品には、コンテクストを全て投影する事はできない。

其処に漂う虚無が表すのは、現実に対する冒涜かもしれない。

美と死を孕んだだけの複合物であると言えるのではないか。




ブルジョア社会が生み出した商業的で、大量消費的で、複製されただけである其れ等が

美しいとされているのは、マスメディアが与えてきたイメージである。


其処にあるのは、死であるか、否か、作者性は機能しうるのか。

もしかSNSで垂れ流されれば、死に埋もれる。


Martin Margielaのその後に”Martin Margiela”は存在しないのだ。



現代において新たに自己意識を確立すべきではないか。

現実を体験するには、作品性を損なう事なく、在り方に対して真に向き合い、何かしらの試みを仕掛けていくべきである。




Andy Warholがニューヨークに構えた、内装が全面銀色のスタジオThe Factory(工場生産の意)はマイノリティ達が集まり、自主制作を行う場であった。

後の村上隆のカイカイキキの体制はこれに影響を受けたとされる。

ファクトリーワーカー達が共に作品作りを成していく、化学変化、反映の場であった。

The Factoryを活かした制作方法は、ワーカー達の参加によってインスタレーションとしても確立していた。


制作する事、それが要素となり、作品を完成に近づける。


絵画は描き手と共鳴し合い、作家は魂を削る。コンテクストが宿るように。

美を取り巻く価値は共鳴し、共有し合うべきである。

アートは自由だ。

だからこそ、生の動機に繋がる何らかの価値を見出して欲しい。



作品と観者とに関係性が現れてこそ、観賞の瞬間に生を手にするだろう。


残像を漁れ。


ソコで作品の完結が、作品の自己性と観者性によって相互し合い、その先の余地を分岐複製してくれるのである。



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